2005年 04月 10日
桜月夜の思い |
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや」
室生犀星 [小景異情ーその二]より
これは金沢の文豪の室生犀星の詩ですが、いつだどこで憶えたのか、自然と心にあるのですが、特に今回の帰国でひょこひょこと顔を出してきます。
先週から京都でひとり、自由自適な生活を楽しんでますが、日本の春、そして「京の桜」はまさに7,8年ぶりなので、感慨深いというか感動というか。昨日は鴨川の河原、大学生の頃などよく見に行った円山公園のしだれ桜、祇園の夜桜を幼なじみと二人、のんびりと春の一日を過ごしました。円山公園のしだれ桜は、かなりのご老体で、憶えている様子とはちょっと異なり、でも一生懸命に桜を咲かせている姿がちょっと痛々しくもあって。
桜の中を歩きながら、昔のままのようで少しづつ変わり行く京都の街を感じ、ちょっと浦島太郎の気持ちでしたが、やはり自分の育った街、思い出があちこちにいっぱい詰まった街というのは、なんともいえない暖かさがありますね。そしてこの犀星の詩の「ふるさとは遠きにありて思うもの」のくだりが心から離れずに。犀星は金沢を恋しく思い、東京から帰ってきては、またしばらくすると金沢に失望して東京へと離れて行く、彼はそんな中でこの詩を詠まれたという話しですが、確かにそんな彼の気持と自分の気持ちとが、オーバーラップします。
はたしてふるさとは遠くで夢に思うからよいのであって、実際に住むところではないのだろうか。いや、夢の中でではなく、日々そこに住んでこそがふるさとなのじゃあないのかな、などと思いつつも、住めば都といえどもどこかでそこから逃げ出したくなる自分もいた20代の記憶。
6階の南に向いた部屋の窓からは、昔と変わらずにJRの線路が見えて、電車が走るのが見えます。そして相変わらずも向かいのお寺からゴィ~ンと無に帰るような鐘が鳴り響きます。ガタンガタンと電車の走り去る音を聴きながら、10年ほど前にこの部屋で過ごしていたあの頃の自分と、なぜだか知らない間にあれから早10年も過ぎてしまった自分がいます。まるでその10年の時間はウソのようでもあって、実は自分は中東などというところへもどこにも行かないで、ここにずっといたんじゃあないかと。現実と夢の境を行ったり来たりしています。
私の場合、この犀星の詩の「遠きみやこにかへらばや」は一体どの都なのでしょうか。京の都かエルサレムの都か、誰かの心か・・・。それともあの夜の与謝野晶子のように
「清水へ
祇園をよぎる
桜月夜
こよひ逢ふ人
みなうつくしき」
と、祇園の夜桜に酔ったのでしょうか。
by rakudano
| 2005-04-10 19:02
| ・私個人の思うこと